3つの願い

3つの願い

3つの願い

「3つの願い」と聞いてまず何を思い出すだろうか。多くの人が「アラジンと魔法のランプ」を思い出すのではないだろうか。いや、もしかしたらディズニーの「アラジン」とジーニーの方が多いかもしれない。 

ディズニーの「アラジン」は大好きで何度も見ている。最初にジーニーが出てきた時の、歌に合わせてアラジンに魔法のランプを説明しているシーンが特に大好きで、歌に合わせて踊り台詞を言うミュージカル映画は、「歌って踊る意味がわからん。」と敬遠し小馬鹿にもしていたところもあったのだが、これを見て一遍にハマり、今では作中にこれがないと物足りないという程になってしまった。 

しかし、私が思い出す「3つの願い」は、これではない。私が思い出すのは「カメオ」だ。カメオとは、黒い石だかなんだかの台に、貝殻だかなんだかでローマ風の女性の横顔をくっつけてある(逆かもしれない)アレだが、もちろん私が思い出すのはそれじゃない。 

カメオといえば、映画やドラマに監督や原作者、または大物俳優などがエキストラのように画面に一瞬映ることをカメオ出演というが、ディズニー映画には「隠れミッキー」や、他の映画の主人公が出ている事もあり、ディズニー映画にはそういう楽しみもある。「アラジン」にも、監督が紛れ込んでいるようだ。(アニメだから分かりにくいけどね。)

話を戻すと、私が思い出す「3つの願い」の「カメオ」とは、「スタンド」である。そう「ジョジョ第3部」の「ジャッジメント」である。この回のポルナレフの「3つめの願いは本当に叶った。」という台詞は、私の「漫画で感動した台詞ベスト10」には必ず入るほどである。

Advertisement

「3つの願い」の始まり

この「3つの願い」というモチーフは、日本の漫画だけではなく、世界中のあらゆる国や媒体で使われているが、元の出処(でどころ)はどこなのだろう? 

アラジンと魔法のランプ」

やはり「アラジンと魔法のランプ」かと思いきや、なんとこの「アラジンと魔法のランプ」に出てくる魔神は、幾つでも願いを叶えてくれるのだ。また、ランプではなく、指輪をこすると出てくる魔人というのも別にいて、こちらも漏れなく願いは叶えてくれるようで、回数制限などないのだ。 

ちなみに、「アラジンと魔法のランプ」といえば、アラビアの代表的な昔話集「千夜一夜物語」(アラビアンナイト)の中の代表的なお話だと思っていたが、これも正しくは違うらしい。 

そもそも、「千夜一夜物語」は、7世紀のササン朝ペルシャ(現在のアフガニスタンからエジプトあたりまでの一帯を占めた中東の大国)時代に、ペルシャ・インド・ギリシアあたりの民話をペルシア語で編纂したものが始まりである。 

その後、9世紀ころにアラビア語で作られた写本を原型として、1704年にフランス語に翻訳された「千一夜」がヨーロッパで大ブームとなり、1706年には英語版「アラビアン・ナイト」が出版されるに至った。 

その後、原型となった写本にはない話(伝え聞きや、おそらく創作も含まれる)が追加され今に至るようだが、千夜一夜のなかでも特に有名な「シンドバッドの冒険」「アリババと40人の盗賊」「空飛ぶ絨毯」などは、後に追加されたもので、原型となる写本にはなく、「アラジンと魔法のランプ」も原型となる写本にはないということだ。 

さて、では「3つの願い」が「アラジンと魔法のランプ」が出所でないとしたら、何が始まりなのだろうか? 

Advertisement

愚かな願い事

1693年にフランスの詩人シャルル・ペローがある雑誌に掲載した「愚かな願い事」というのが、はっきりと文字にされたものの始まりのようである。このシャルル・ペローは民間伝承に少し脚色を加えて編纂した「ペロー童話集」で知られ、この「ぺロー童話集」は、後の1812年にドイツのグリム兄弟がまとめた「グリム童話」などに先駆けた童話集として評価されているということだ。 

「ペロー童話集」には,ほかに「眠れる森の美女」、「長靴をはいた猫」、「シンデレラ」や「赤ずきん」などが収録されており、「灰かぶり(シンデレラ)」や「赤ずきん」などは、後の「グリム童話」にも登載されている。なお、「グリム童話」には他に「ヘンゼルとグレーテル」や「白雪姫」も載っており、その後多くの話がディズニー作品となっている。 

童話では、ほかにデンマークの「アンデルセン童話」も有名であるが、こちらは基本的には民間伝承ではなくアンデルセン氏の創作だそうだ。「人魚姫」「マッチ売りの少女」「みにくいアヒルの子」などがその作品である。 

さて「3つの願い」の元となったその「愚かな願い」とは、どんな話なのか。その「あらすじ」は… 

とある森でいつものように木を切る貧乏な木こり。毎日が苦しく「天は一度もこの私の願いを聞いてくれたことがない」などとつぶやく。その願いが届いたのか、ある日、神様が現れ「3つだけ願いを叶えてやろう」と言う。 

家に帰り暖炉の前で「何がいいか」と妻とあれこれ相談する。そのうち、木こりは思わず口にしてしまう。「ああ、この暖炉の火でソーセージを焼いたら美味しいだろう。大きなソーセージがあればなあ」 

すると瞬間、天から大きなソーセージが降ってきた。妻は木こりの軽率さに腹を立て怒り、木こりを罵る。困った木こりは怒り任せにこう言った。「このうるさい女の鼻にソーセージをぶら下げてくれ」 

願いは届き、妻の鼻に大きなソーセージがぶら下がる。「ああ、なんてことだ。」そして木こりは悩んだ末、最後のお願いをする。「妻の鼻のソーセージを取ってやってくれ」と。これで全ての願いが叶ってしまう。 

ペローは最後に「このような分別のない軽率な人間は、折角の天の恵みを活かせない」といった事を書いているとのこと。才能なりチャンスとなる機会を活かせるかどうかは、その人にかかっているといったような教訓なのだろう。 

Advertisement

3つの玉

なんと、日本にも同じような話があり、こちらはいかにも日本的である。 

出てくるのは神様ではなく(当たり前か)雨に打たれびしょ濡れになった旅の坊さまで、まずは金持ちの家にお願いするも追い出され、次に水車小屋の家を訪ねると、そこで粗末ながらも精一杯のもてなしを受けた。坊さまは一宿の恩を返さんとして、願いが叶うという3つの玉を置いていった。 

水車小屋の爺さま、おっとう、おっかあは、それぞれ玉を持ち願いをかけた。かけ終わると玉は消えたが何も変わらない。3人の願いはみな同じで「家族全員が達者で暮らせるように」というものであった。 

それを聞いた金持ちの家のじじいとばばあは、坊さまを追いかけた上、無理矢理泊まらせて3つの玉をせがんだ。坊さまは仕方なく3つの玉を置いていった。 

それぞれ玉を持ち、願いをかけると玉は消え、着物100枚と米蔵100棟があらわれた。最後の玉は取り合いになり、とうとうじじいが玉を握りしめたまま「このばばあめ、角を生やし鬼にでもなれい」と願をかけた。玉は消え、ばばあは鬼になってしまった。 

米蔵を置いていく訳にもいかず、じじいは鬼と毎日喧嘩しながら過ごしたそうだ。一方、水車小屋の3人はみんな元気で仲良く暮らしたとさ。

普遍的な欲望

この日本の昔話がいつ頃から語られているのか、外国の童話などの影響を受けているのかは知らないが、「3つの願い」が叶うという状況は普遍的な人間の希望であり、何を願うかそしてどうなるかは、知的好奇心をくすぐり人々の興味をひく。 

だからこそ、「3つの願い」という話は、世界各地のそれぞれで別個に発生したものではないだろうか。 

さて、そんな「3つの願い」であるが、一般的には「願いを増やす」「死んだ者を生き返らせる」などは禁止とされており、結局は「金」「権力」「モノ」などを頼むことになるようだ。 

そうなると、デスノートの夜神月(やがみライト)が目の取引と釣り合うものとして望んだ「翼」などとは違い、相当な努力や運が必要だとしても、「3つの願い」は自力でも叶うものなのではないか。 

そうなると、「3つの願い」は本来、人智で叶わないものを願うべきなのに、大体の話は現実的な願いを叶えようとしているのが面白い。だからこそ、世界各地で長く語り継がれているのだろう。